書道美術常設展示室
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徳島ゆかりの文学者

貫名 菘翁
 (ぬきな すうおう)
 1778.7.3〜1863.5.6
 藩士吉井永助直好の二男として,徳島城下弓町(現徳島市弓町一丁目)に生まれた。名は直知・直友・苞(しげる),字は君茂・子善。通称は政三郎・省吾・泰次郎。号は海仙・海客・海屋・海叟・菘翁・摘菘翁・摘菘人,別号に方竹山人・須静堂主人がある。幼くして書画を好み,はじめ,書を西宣行に学び,画を矢野典博(母方の叔父)に学んだ。後年,空海の書に影響を受けるが,晋唐の精拓を専門的に収集・精査し,徹底した臨模に努めた。「晋唐の伝統的な書法の上に,日本的な優美さをよく融化して,渾然とした書の世界を現出した」と評される。京都で須静堂塾を開き儒学を教えたが書家としての名声が高く,市河米庵,巻菱湖とともに幕末の三筆に数えられる。
中林 梧竹
 (なかばやし ごちく)
 1827.4.19〜1913.8.4
 佐賀県小城郡三日月村(現小城市)の人。名は隆経、字は子達。通称は彦四郎。号は梧竹。幼い頃より書に長じ,江戸に出て市河米庵・山内香雪に漢学と書を学ぶ。長崎で余元眉,中国・北京では潘存に書を学び,日本の近代書道の魁となった。日下部鳴鶴,巖谷一六とともに明治の三筆に挙げられる。大正2 年8 月4 日,郷里の佐賀県小城郡三日月町にて87 歳で没した。著書に『梧竹堂書話』がある。昭和34 年,海老塚的伝氏より梧竹晩年の傑作約300 点が徳島県に寄贈され、県有形文化財に指定されている。
小坂 奇石
 (こさか きせき) 
  1901.1.13〜1991.10.6
 海部郡三岐田町(由岐町・現美波町)の人。名は光太郎。号は奇石の他に佩韋子・黙語子・南田居など。16 歳で書家の黒木拝石に師事する。漢詩を土屋竹雨などに学ぶ。昭和30 年『璞社』を創設し,昭和42 年書道研究誌『書源』を創刊した。昭和32年から平成4 年まで,現代書道二十人展に出品。他の追随を許さない奇石独自の作風を確立した。漢詩文もよくし,自作の詩を書いた作品も多く残している。奈良教育大学や徳島大学などで教鞭を執り,書道教育の発展にも努めた。昭和45 年日展文部大臣賞,昭和55 年徳島県文化賞,昭和56 年には日本芸術院恩賜賞・芸術院賞を受賞した。著書に『黙語室雑記』などがある。現在,書作品約300 点と、コレクション作品・蔵書等を収蔵している。
柴野 栗山
 (しばの りつざん)
  1736〜1807.12.1
 讃岐国三木郡武例村(現香川県木田郡牟礼町宗時)の人。樸翁(平左衛門軌達)の長男。名は邦彦。通称は彦輔。号は栗山・古愚軒。18 歳で上京し昌平黌に学び,1767 年より阿波藩に招かれ,20 年間藩儒を務めた。のち京都に家塾を開いたが,1788 年幕府の儒官となり,老中松平定信の信任を得て「寛政異学の禁」と呼ばれる学制改革に力を尽くした。「寛政の三博士」の筆頭と称された。著に『栗山文集』・『黌栗山逸文』・『栗山堂詩集』などがある。 
村瀬 栲亭
 (むらせ こうてい)
 1744〜1818.12.6
 父は阿波郡香美村(現阿波市市場町香美)の人。名は之煕・小華陽。字は君績。通称は嘉右衛門。号は栲亭・神洲。父の周節は,京都に出奔して医師になったが,京都で生まれた栲亭は幼少より父の教えを受けて医学と儒学を学んだ。40 歳の時,秋田藩に儒官として迎えられ,また藩の総奉行として藩改革を補佐するなど重用された。その後京都に塾を開き,田能村竹田・中島棕隠など多くの門人を育てた。考証学を唱え,博学で詩文に長じ,書画にも優れ,書は行書をよくした。『芸苑日抄』・『栲亭遺稿』など著述も多く,門人から「文献先生」と呼ばれた。
閑々子
 (かんかんし)
 1752〜1827.6.15
 三好郡州津村(現三好市池田町州津)の人。来代(初姓北代)禎左衛門の次男。幼名は八重八。諱を天如。字を峻山。号は閑々子・閑々山人・換水和尚・松林老人など。幼時より秀で徳島勢見山観音寺の快観上人の門に入る。慈雲尊者や東大寺などで学んだ後,徳島の各地で修行し,勝浦郡中田村(現小松島市中田町)の成願寺を再建した。博学で詩書に長じ,水墨画をよくし,亀・蟹・海老・蛙などを多く画題とした。奇行で知られるが,その徳行は多くの人々に慕われた。
鉄 復堂
 (てつ ふくどう)
 1777〜1843.11.7
 家は代々名東郡佐那河内村の農民であったが,父の代に徳島に出て藩に仕えた。名は顕考・煥。号は芳渓・渭洲・高亭,のち復堂。幼時は八木巽処に,長じては藩儒・那波網川の門に入った。上京して古賀精里の学僕となるが,学成って加賀藩に招かれ儒学を講じた。のち、父の意向で帰藩するが,その後は藩からの招聘にも応ぜず,貧窮の中,生涯を町儒として多くの人材を育てた。門下に新居水竹がいる。書に優れ,水墨山水も描いた。
柴 秋邨
 (しば しゅうそん)
 1830〜1871.3.18
 徳島城下紀伊国町(現徳島市)の人。幼名は卯吉。名は維卯(これしげ)・萃(しげる)。字は緑野。初号は繭山,後に秋邨。太物商阿賀屋清左額門の子。四歳で父と死別し,八歳で丁稚奉公に入るが,医師・河野弘(海門)に見出され門弟となった。その後,新居水竹に儒学を,のち,江戸で大沼枕山に学んだ。また,大阪で広瀬旭荘に入門,秋邨の号をもらい,塾長を務め,更に豊後日田の咸宜園でも教えた。詩に長じ書画にも秀でた。思済塾を開き藩の儒官・文学教授となるが,庚午事変(稲田騒動)に同調したことで処分を受け42 歳で没した。酒を好み,酔余の作品が多い。
泉 智等
 (いずみ ちとう)
 1849.11.11〜1928.9.26
 麻植郡鴨島町鴨島殿郷(現吉野川市)の人。幼名は直蔵。号は物外。12 歳の時に板野町の荘厳院地蔵寺で出家し,16 歳で漢籍を柴秋邨に学ぶ。19 歳頃より高野山等で仏教学を究め,荘厳院地蔵寺をはじめ全国30 余の住職・兼務住職を歴任し,寺門興隆に尽くした。京都の仁和寺門跡・泉涌寺長老,後に真言宗総本山金剛峯寺座主・真言宗連合総裁・三派合同古義真言宗管長など多くの重職を歴任した。詩を作り書をよくし,画は山水・四君子を得意とした。高雅で品格に満ちた書画の中に,内に秘めた強さが見える。
都郷 鐸堂
 (つごう たくどう)
 18582.27〜1944.5.23
 美馬郡一宇奥山村伊良原(現つるぎ町)の人。名は角太郎。号は蠖堂(かくどう)・のち鐸堂。7 歳で宮内安芸に入門し,懐素の書を好んで学ぶ。15 歳から2 年あまり田辺龍仙に書を学び屈伸園蠖堂の号を受ける。名東県師範学校卒業後,小学校訓導となったが,23 歳で和歌山に渡り,森田無絃の塾で儒学を学んだ。31 歳で帰郷後,52 歳で退職するまで小学校長等を務めた。以後、往年の研鑽によって独自の書論を唱え『筆道革新歌』『草訣百韻歌刪修』『大正草字鑑』などを発表。54 歳頃より視力が衰え始め,後に歩行困難となったが,子や養女に手を引かれ全国各地を遊説した。晩年にかけて,目が不自由になりながらも書作を続け,特に草書の作品を数多く書き残している。

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